2013年3月20日水曜日

生物学者モノーの思想

モノーって科学者である立場を超えてなんかよくわかんないこと言ってるぞ,という感じで,僕は『偶然と必然』の理解をあきらめていた。そんなときに出たのが,佐藤直樹著『40年後の『偶然と必然』』という本で,少し前にこれを読んだので,考えたこととを記しておく。僕は,フランス語が全くわからないので,この本の丁寧な考察を伝えることができないけれども,自分なりに『偶然と必然』の理解は深まった気がする。

モノーは,オペロン説とアロステリック制御を提唱した生物学者(オペロン説でノーベル賞受賞)である。オペロン説とは,生理的適応(合目的性)をDNA結合タンパクの遺伝子制御(転写のオン・オフの切り替え)によって説明するモデルであった。一方アロステリック制御の概念によれば,シグナル因子は,アロステリック制御を通じて酵素(1つのタンパク)の構造を変えることによって,酵素活性のオン・オフの切り替えを行う(1)。この2つの概念を合わせれば,環境依存的なスイッチを意味する生理的適応を,理論的には,シグナル因子によるDNA結合タンパクのアロステリック制御という要因で説明できたのだ。

さて,『偶然と必然』において重要な概念である「テレオノミー(teleonomy)(目的律的な合目的性)」とは,純粋に機械論的な合目的性が進化の過程を通じて働くという概念である(2)。(テレオノミーは,生物がもつ「プロジェ(projet)(目的)」が生物によって実行されるのを保証する。)生物学的には理解できるのだが,実はモノーのいう「目的」が,サルトル的な「企投」の意味も持ち始めるのでややこしくなる。著者は,実存主義(3)に依拠しながらモノーの「偶然」「必然」の意味を分析し,わかりにくいモノーの哲学的な主張を明らかにしていく。モノーは,細胞レベルの合目的性から,(なんと!)人間の思考の基盤や文化をも説明できるのではないかと考えたのである。

■モノーの言いたかったこと

生物の法則として,創発と目的律的合目的性が挙げられる。従来の目的論的自然観を否定し,目的律的合目的性は,不変な構造であるDNAに撹乱が加わること(創発)により後から現れることを強調する(ネオダーウィニズムの肯定)。
目的律的合目的性は,タンパクの構造まで降りていって機械論に基づいて説明できると思われる。いま,細胞自身の目的(DNAの複製および自己増幅)が実行されるためには,環境に協調したシステムとして,アロステリック制御が必要である。アロステリック(エフェクターと基質が酵素に結合する場所は別である)という特性から,エフェクターと基質の関係は原理的に任意である(無根拠性)(4)。これは合目的的な仕組みが,エフェクターと基質の偶然的な組合せによって実現されていることを意味する。この膨大な数の自由な組合せによって新しい機能が生まれうる。
新奇性・創造の唯一の起源であるDNA突然変異と,それによるタンパクの機能的変化は独立であり,偶然によって支配されている。しかし,偶然によって用意された多様性に選択がかかることにより,ちょっとしたことがきっかけとなって見かけ上方向付けられた進化が現れうる。例えば,言語の獲得という偶然的事象の結果として,文化・思想・知識という新たな世界を創造する新たな進化への道が拓けた。
生命の起源が偶然的である以上,人間存在に必然性を与えようとするいかなる説明も,科学的知識の中に見出すことはできない。それゆえ,人間は実存的苦悩にさいなまれる(異邦人性)。アニミズム的に外部から押しつけられた価値観が崩壊した以上,自ら価値観を選択しなければならない。科学的客観的知識を価値観として選択し,本当の社会主義を構築するのが,人間独自の王国に残る方法である。

著者によれば,「偶然」のルーツはマリボーの戯曲と経済理論にあるのだという。戯曲では,偶然の出会い(突然変異)を愛(合目的性に適合するかどうかの選択)が結びつけ,最終的に似合いのカップル(合目的性)を生み出しているのだそうだ。
実は,モノーが考えた「偶然」や「必然」の概念は多様であり,一般に理解されているDNAのランダムな突然変異に単純に帰着できるようなものではない。多義的であるがゆえに,『偶然と必然』は重厚なものになっている(本書pp.214~229を参照)。

おそらく最もわかりにくいと思われるのは,モノーの哲学的言及である。生物の合目的性を分子レベルに落として説明した(機械論,還元論)と同時に,彼は人間の特殊性を強調し,人間だけがもつ言語や思想に基づく世界を考えている(思想の進化モデルさえ考えているようだ)。細胞レベルの機械論と人間の独自性は実は一貫しており,モノーは正のフィードバックによる見かけの定向進化で人間の独自性も説明しようとしたのだ,と著者は指摘する。
ただし著者は,『偶然と必然』の中でモノーが最も言いたかったと思われる,客観的科学的知識に基づく価値観の採用,および理想的な社会主義の提案には異を唱えている。人間が抱える実存的問題を,科学によって解決できるとは思えず,人間社会を動かすしくみを語らずに人間の不条理が偶然性によって説明されると言っても,説得力も解決策もないのだと。

(1) 実は酵素である必要はなくて,DNA結合タンパクとしたほうがオペロン説の文脈に直接的につながるのだが,昔は酵素活性を生化学的に評価することのほうが転写因子の活性を評価するよりも簡単だった背景があると思われる。オペロン説との関係でspecificに言い直すならば,ラクトースというシグナル因子の存在に応じて,DNA結合タンパクであるリプレッサーがDNAから外れる(転写のオン・オフの切り替え)。
(2) ここでの「目的」とは,見かけ上目的に適ったように見えることの意味であって,目的論的なものではないので,目的律的と強調されている。『進化論』以降の生物学者はそれを認識していたが,時に目的論的に解釈してしまう誤謬があった(ドーキンス『利己的な遺伝子』などを参照)。
(3) アニミズム的に実存が与えられてきたおかげで,安定性が保証された社会は,科学によって破壊された。進化が生物に内在する性質ではなく,DNAの確率的な撹乱によるものだとわかった以上,人間の存在する必然性(価値観)が失われてしまった。このように,ニヒリズムの主要因の一つが科学であると分析している。
(4) 著者はこれをモジュール性とspecificに言い直している。KirschnerとGerhartの言葉で言えば,「弱い連係」となろうか(彼らはこの性質が新奇性を生み出しやすくなるとする,促進的表現型変異理論を提唱している)。モノーは,アセチルコリンと筋肉収縮との独立的な関係が出現したことを例として挙げている。

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