2013年6月27日木曜日

価値中立な「データ」は存在するか?

村上陽一郎著『新しい科学論』(講談社)を読んだので,簡単に紹介したい。本書は,amazonでは絶賛されているが,若干ありきたりなものを感じた。1979年当初では,相当新しかったに違いないが。

著者はまず,常識的な科学へのまなざしを
帰納と演繹のくり返し,経験的観察と論理的導出の円環的なラセン運動によって,ありそうと思われる仮設の確からしさを増大させていく営み(p. 55)
と表現する。その科学観では,データを普遍的な真理として与えられたものと捉え,データの蓄積が法則の進歩へとつながる(より真理に近い)と考える。つまり,常識的な科学は,少ないデータに基づく法則を多いデータに基づく法則が包み込むという,包括的な性格をもっている。

この様子は,認識論的な立場からは,バケツに喩えられる。つまり,穴の空いたバケツが人間であり,穴へと流れこむ水は外界のデータである。さらに,外界のデータを認識する際には,偏見が取り除かればならない。このように,客観的で普遍的な真理を追求する試みとしての科学観は,ボルツマンの言葉「科学者は裸がお好き」にも認められる。

著者は,このような常識的な科学は,全くの誤りであるとして,新たな科学観を提唱する。著者は,文化史的観点,および認識論的観点から,常識的な科学に挑戦する。

文化史的観点から,様々な科学・医学は,宗教的な考え方が文化的背景としてあったからこそ,誕生したことを主張する。(たとえば,ニュートンの力学と錬金術・神学,ケプラーとネオプラトニズム,パラケルススの医化学と霊など。)さらに,後に理神論→無神論へと続く聖俗革命によって生まれる啓蒙主義は,故意にキリスト教を排除しようとした点で,まぎれもなくキリスト教を意識した内容になっている。

認識論的観点からは,よくある錯覚とかを持ち出し,普遍的な真理がいかに危ういかを見せつける。電気スタンドを認識するためには,目に入ってきた情報だけではダメで,電気スタンドの裏側や,その機能といった関係性を理解しなければ認識できないと主張する。ここらへんは,(著者はアフォーダンスとは一言も述べていないが,)ギブソンの認識論そのものである。さらに,「虹は七色か」といった,言葉と認識の関係に関しての言及は,構造主義の考え方が色濃く,クリプキなどを思いおこさせる。「酸素を発見した」というとき,そこには,酸素の性質としての酸化還元反応という理論がすでに出来上がっている。データによって理論が帰納されるのではなく,理論が事実を作っているのである。

このように見たとき,科学の進み方は決して価値中立なのではなく,社会の影響を多く含んでいること,さらに,事実そのものが理論とは中立的でない形で価値をもっていることが浮かび上がってくる。つまり,普遍的な真理などというものは存在しない。
現代の科学は,その長所も欠点も,わたくしども自身のもっている価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚することから,わたくしどもは出発すべきではないでしょうか? (中略)人間の道具としての科学ではなく,科学を自らの身の内に引き受けるという認識を通じてのみ,わたくしどもは,自己を変革すると同時に科学を新しい方向に変革することができましょう,もし必要ならば……。(p. 201)
dataとfactの語源の違いに関してなど,著者の博覧強記っぷりには感心したが,本書がやや古いと言えるのは間違いない。錯覚を持ち出すあたりは,大げさと言わざるをえない。アフォーダンスの考えを持ち出す必要はあったのだろうか。

ただ,理科系の科学者自身たちに,科学など所詮一つの価値観にすぎない,という自覚が足りないことも事実であろう。昔読んだ本のこの文章を思い出す:
このようにして得られた記述が,かならずしも誰にとっても真理であるような普遍的なものであるとは限らないということです。いや,どれほど一般化された記述であっても,―そしてそのための努力を研究者はするわけですが―しかしそれはある一定の知的共同体にとっての真理であって,けっしてそれが唯一の真理であることを無前提的に主張することはできません[1]。
主体に関しては,
「我思う」は言語抜きには不可能であり,そしてもし言語があるのなら,そのときわれわれはすでにわれわれの「我思う」を超えたさまざまな論理や関係に巻き込まれてしまっているということです[2]。
こうした意味では,文科系の研究者が,理科系の研究者に比べてはるかに謙虚な姿勢をもっているのかもしれない。

[1] 小林/船曳編『知の技法』(東京大学出版会)p. 11
[2] 小林/船曳編『知の論理』(東京大学出版会)p. 9

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