2013年4月26日金曜日

「生命」観(1)

古来より,実に沢山の人が「生命」について思慮を巡らせてきた。今日のところは岩崎秀雄『<生命>とは何だろうか』(最も新しいので奇妙な感じではある)を読んで考えを述べていく。

岩崎先生は,著書で合成的な考えの源流をたどり,歴史を振り返っている。キリスト教的世界観,細胞説,自然発生説の否定というドグマにあって,それへの批判という形で,古くより唯物論者たちは生物の構成的理解を目指してきた。1960年代には,柴谷が生物人造論を打ち出しているものの,生物学の枚挙的な性格ゆえ,合成的アプローチが主流にはならなかったのである。一方,1980年頃から人工生命(AI)が脚光を浴びるようになり,生命らしいと思われる普遍的な振舞いを構成的に表現することが課題になった。分子レベルの知識の蓄積も相俟って,システム生物学・合成生物学へと発展したのである。

そもそもまず,生命を理解するとはどういうことかが問題である。理解には様々な階層がある。パソコンをよく使う人が,コンピュータについて理解していると言えるだろうか。コンピュータを作ることができるなら,理解したと言えるかもしれない。

つまり,生命を理解するアプローチの一つは,それを作ることである。合成にも既にある生物を少し改変する方法や,ほとんど0から作る方法とがある。後者は,生命によく見られる普遍的な現象クラスが現れるために必要十分な条件を見つけ出そうとする。

さて,生命の理解には,間主観的(文化的)な判断が不可欠である。そもそも生命を定義する試みにおいてすら,チューリングテストに見られるように,否定的な形で生命が定義されるのだから。さらに,生命の合目的性を記述する試みも,目的を判断する主体が含まれている。役割(あるいは目的,機能,価値)をもつモノを記述するという観点において,生物の記述は,工学の記述と類似している。還元論は,生物の合目的性を排除するのではなく,温存してきたのである。というのは,それが物質間の関係性へ還元する試みであり,その関係性は人間の恣意性に基づいているからなのだ。

生命科学自体が,主観を含むものである以上,生命科学も芸術の一形式とみなせるのではないかと,岩崎さんは指摘する。この指摘は,かなり的を射ているように思われる。生命科学は,そもそも科学者が視覚的に見つけた構造を,機構論的に説明することから始まったからである。美と科学はどちらも生命の合目的性を見出す試みであった。カントは,美が自然科学と信仰の分裂,すなわち目的論と機械論のジレンマを調停するものと考えていたそうだ。

カントの考えは,現実的ではないとしても,生命科学という形式に対して,示唆を与えたりできるような,別の芸術の形式があってもよかろう。いまはやってるのが,というか岩崎さんがやってるのが,合成生物を積極的に利用した芸術である。金魚解放運動は,割と面白い試みだなあと感じた。金魚から始めて,野生の環境に適応できるものを選択していくと,もとのフナに似たものに戻っていくらしい。

そのほかにも,歴史的・思想的な視点から,生命を表現する試みがなされている。生物が環境を変化させていく様子を,合成生物学的に,実際の生命を使って象徴する芸術などが話題になっている。今度,生命美術展も見に行ってみたい。

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